昭和42年11月17日 朝の御理解



 生き物と、( ? )生きておるのですから、そのままにほっておいたら、枯れたり、死んだりします。ですから、そのおかげを育って行くと言う事は、おかげに対する、食べ物を与えるようなものである。だから、いよいよ、おかげを頂いていくために、の、おかげがいよいよ、豊かに大きく育っていくために、おかげを頂いていかねばならんのだが、その、おかげに与える、例えば、食べ物というのは、食べ物と言うか、何かというと、お礼である。喜びである。お礼を言い、喜びをいい、その、お礼、喜びが、おかげを、いよいよ、大きなおかげに育てていくのです。私共が、不平、不足を言う、それは、おかげが、頂き足らんように思うから、不平不足が出るのである。ね。同時にその、不平不足を言うとその、おかげは枯れていくのである。いよいよ力を弱めていく。または、死んでしまう。私共が、あまりにも、願う心、願う心と言うか、貰う、貰い、頂きたいという心、頂きたいという心が強いと、どうしても、喜びの心が薄くなる。そして、不足が強くなる。ね、私共はその、おかげを頂きたいと、頂くという心、ね。おかげを貰いたいというその心。それが、強ければ強いほど、不足が出る。不平が出る。そして、頂いておるおかげまでも、枯らしてしまう。おかげは生き物である。生き物であるために、それには、やはり、食べ物を与えなければならない。いうなら、餌を与えなければならない。それは、お礼である、喜びである。ね。そこにその、私どもは、いよいよ、おかげが、いわゆる、頼まんでも育っていくのである。いわゆる、おかげにはおかげの花が咲いていくのである。おかげにはおかげの実りが、いよいよ、実っていくのである。私共の心が、願う、ね。頼む、貰うと。おかげを頂くと言う事。頂き心というものをです。おかげを貰おうというその心をです、実を言うたら、なくしていかにゃいけん。ね。そのおかげを、どうぞ、頂きたい、頂きたいとこう思う。ま、神様が下されば、それでいいのですけれども、どっこい、神様が、そうは問屋が卸さんという事になってくると、不足が出る。いわゆる、自分の思うようにならんと、不足が出る。実意丁寧はどこへやら、我がままが出、折角、頂いておるおかげが枯れてしまう。また、新たなことになってしまう。ね。そこでその、私共の願いを、ごろっと、頼みどころ、ね。頂きたいという、うー、願いを捨てると言う事は、なかなか難しい。だから、私共は、お取次ぎを頂かなければならない。お取次ぎを頂いたら、もう、お取次ぎにゆだねなければいけない。ね。お取次ぎを頂いたら、ね。もう、そこで、お取次ぎを頂いたら、お願いをしたことは、もう忘れても良い。ね。そして、頂いておるおかげに対して、お礼を言うて行かにゃいかん。頂いておるおかげを、いよいよ育てていかなければいけん。あれもおかげ、これもおかげと、分らせて貰う。ね。喜びの心を、いよいよ、育てて行かにゃいけん。そこに、いよいよおかげが育っていく。と言ってもその、頼む、願うという心が強いと強いほど、ね。どうしておかげが受けられんじゃろか、あれだけお願いしておるのにという事になる。ね。それが、実意丁寧を欠いてしまう。いよいよ、それではおかげが受けれれない事になる。ね。頂いておるおかげに、もう例えば、おかげを頂きますよね、とにかく、そのおかげを頂いて、特別のおかげを頂きますように、といって、お礼参りをさせて貰うと、お礼を申し上げたら、お供えでもしたら、もうそれでお仕舞になってしまう。というような事ではなくてです。思い出せば、思い出すほど、本当に、おかげを頂いたときのことを、思わせていただくと、ほんとに、私ぐらいな、信心も出来ん者に、あんなおかげを頂いて、このようなおかげを頂いてという事になるのです。それが、いよいよおかげを育てる、いわば、餌になるのです。おかげを育てる食べ物になる。おかげは生き物である。その、ほんとにおかげ頂いて、「先生、おかげ頂きましたー」と、こう言うでしょうが、ね。そのおかげを、いよいよ育てて行かにゃいかん。そん時のことを思うたら、ほんとにあげなおかげ頂いてというてその、喜びの、御礼の餌を与えている。いよいよそのおかげは、もっともっと、大きな偉大なおかげに育っていく。ところが、もう、そのようなことは、段々、うーすなってしもてから、忘れてしもてから、そして、次の願いが成就しないことを、に、不足を言う。もう、不平不満がおきたり、ね。自分の生活が乱れてきたりしておる時には、いよいよ、もう、おかげは枯れて行きよるときですね。ね。そして、いうならば、めぐりが育って行きよるときです。願いが強い、あああるといいけども、こうあるといいけども、こういうおかげを頂きたいという願いが強いから、不足が出る。だから、願いというものは、段々段々、影を薄うして、それでも、やはり生身をもっとりゃ、願わなければならない事はありますけれども、その願いが、段々、高度な願いになって行く。朝の、御用を一通り終わりますと、きちっとこう、身なりなんかも改めて、御神前に、お広前に出て来ます。そしてその、御祈念を致します。もう、何と言うても、こんな嬉しい事はございません。いくら、急がしかってたって、お広前に、一辺も出てこん。朝参りの時には、もう、眠りほうけておる。じゃなくてですね、何かを願い、何かお礼を言うておるのでしょうけれども、それは、わざわざ、ここでお取次ぎ頂く事ではないから、分かりませんけれどもです。ね。どういう事を願っておるだろうかと。どういう事を、その祈りの内容というものを、けれどもあの、お礼を言うておるというか、御祈念をしておる姿の中から、思わせて頂く事は、どうも、やはり、お礼を言うておるという感じである。お願いなら、ここに、大概言うて出てくる。ね。お前は、お広前に一辺は出てこんかと、と言うて出てくるのではなくて、何とはなしに、出なければおらないと言う事が、私は、おかげをおかげと気付きおる事ではなかろうかとこう思う。お礼を言うておることが、ね。お礼を申し上げることはどこへやら、そして、不足があり、不平がある。そのころから、子供達が、すこーし変わってきたように見出す。若先生も、時々、朝、出てくるようになった。二番目の、光昭も、朝の御祈念にでらせて貰う。今朝、出てきとらやったがとこう、はあ、今朝は寝忘れたから、今日はあの、光昭はそのお詫びに、断食すると言いよりますち言いよりますと、家内が言うんですよ。ほー、家内が、少し変わってきたら、子供達が変わってくる。おそらく、子供達が、どうぞと願うのではなくて、頂いておるおかげに対する、お礼を言うておるのであろう、あの、お礼の姿勢の中から、それを私が感じる。お願いでは、どうもないらしい。それではなくても、ほんとに、このようにおかげを頂いてと、それに、気付いてきたわけである。その、おかげに、いうならば、餌を与えてそこへ、いうなら、子供達の信心というか、ね。親の願いであるところの、子供に対する願いであるところの願いが、少しづつ成就していくのである。そらこれは、家内に聞いてみないと分らないけれども、私は、想像である。おそらく、願い、願いなら、必ずここへやってくる。何でも、お願いならここに持ってくるけれど、毎日出てきて、ここで御祈念をしておるのは、どうも、お礼を申し上げているというふうに感じるんです。そこに、まあ、期せずしてというか、私が感じるところは、子供達が変わっていくのを感じる。しかも、こう信心、家内がしみじみと御祈念が出来る。そこに、しみじみとしたおかげが、いよいよ、育っていく。これなんかはその、頂きたいのは、山々です。ああもありたい、こうもありたいというのは山々ですけれども、自分の思うようにしたいのも、山々ですけれども、それこそ、思うようにならんのが、浮世であるという事を、本当に思うて、本当に分かって、私共が頂いておるおかげを、いよいよ育っていこうとする願いを立てなければならんのです。そこにはです、期せずして、そのおかげは、おかげの花を付けていき、おかげの実りを付けていくのです。ね。とにかく、頂いたおかげを、枯らしてしまうのが不足である、不平である。ね。そこにはもう、我が儘な、乱れた姿しかない。ね。それでは、折角のおかげが枯れている。おかげは生き物、でその、生き物であるおかげに、一時でも餌を忘れるようなことをしてはならぬ。せめて、人間が、三度三度であるならばです、おかげにもせめて、三度ぐらいは、お礼の、ね。喜びの餌を与えなければいけん。ね。そして、あなた方が願うておる、その願いというものをです、本当に小さい願い、つまらん願いと、ひとつ分らせて貰うて、そら願うても良い、けれどもそれは、どこまでも、お取次ぎを頂いて願ったが最後、もう、そこにゆだねなければいけない。そして、頂いておるおかげの、深さ、広さを、いよいよ分らせて貰うて、十年前頂いたおかげ、十五年前頂いたおかげ、思えば思うほど、あの時のおかげが有難い。ほんとに、私共ぐらいなものに、あげなおかげを頂いてと言うて、その、十年前のおかげにでも、餌を与えることが出来る。そのおかげが、いよいよ育っていく。問題は、そのおかげが育っていくおかげを頂きたいのですから、ね。願うたからち言うて頂けるものじゃない。お礼を言うて育っていく。お礼を言うて頂ける信心なんですね。だから、おかげは和賀心にありと仰せられるのである。それを、我が心とは反対で願ったところでです、おかげが育っていくはずがない。どうぞ。


中村良一
2005年4月13日